源平合戦(一ノ谷の戦い)
後白河法皇から源義経範頼に平氏追討の院宣が下った。京から逃げ延びた平氏軍は、屋島まで逃げたが源氏同志の争いのすきに、攝津一ノ谷(神戸)まで盛り返し、攝津一ノ谷(神戸)で陣を構えた。その数10万という大軍。しかも,砦は,後ろには険しい山、前は海という,攻めてには一番都合の悪い場所であった。寿永3年(1184)1月29日、源範頼軍は主力5万6千余騎を率いて平地の方から攻撃し,義経軍は2万余騎で山の方から攻めることにした。

2月7日の朝、義経軍は3000の軍勢で鵯越(ひよどりごえ)の山道を進むと前方が開け,その崖の下に目指す一ノ谷の砦が見え,平氏軍と源範頼軍が合戦の最中であった。義経は,精鋭70騎(畠山重忠、熊谷直実、和田義盛ら)を率いて人馬一体のいわゆる「逆落とし」奇襲作戦を実行し、崖を駆け下り,一ノ谷の平氏の砦を急襲し,あちこちで火を放った。平氏は大混乱に陥り、安徳天皇・建礼門院を守り,屋島に落ちていった。

この時、平敦盛らの武将が討ち死にした。この勝利により、
義経軍による平氏滅亡の序曲であった。
  源氏系図
                  鵯越(ひよどりごえ)の図 
       
 

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