鎌倉の歴史上の主な人物

  源義朝(みなもとのよしとも)    源氏系図

義朝(1123~1160)は、源頼朝の父。保元元年(1156)、平清盛らと後白河法皇の武将として兵を挙げ、父・為義らを破って勝利する(保元の乱)。しかし乱後の恩賞では清盛に比べて恵まれなかった。その為、平治元年(1159)には、清盛と戦うものの敗れ(平治の乱)、鎌倉に向かって落ち延びる途中、尾張で殺された。寿福寺一帯が屋敷跡と伝えられている。勝長就院跡に墓がある。

 






  源義光(みなもとのよしみつ)    源氏系図
義光(1045〜1127)は、源頼義の息子で,新羅三郎と称した。母は平直方の女。弓馬の達者な名将と言われた。後三年の役で兄・源義家とともに戦い功をあげた。名越の大宝寺(佐竹屋敷)に居を構えていた。大宝寺には義光の肖像彫刻と墓がある。












  源義家(みなもとのよしいえ)    源氏系図
源義家(1039〜1106)は、源頼義の長子で、前九年、後三年の役で活躍した平安末期の武将。八幡太郎義家と称し、永保三年(1083)陸奥守兼鎮守府将軍となる。これより先、永保元年2月・父・源頼義が由比郷に建てた八幡宮(元八幡)を修復している。
 








  源頼家(みなもとのよりいえ)    源氏系図     人物関連図       悲劇の比企一族
頼家(1182~1204)は、二代鎌倉幕府将軍。源頼朝政子の間に生まれた。比企一を後見として頼朝の家督を継ぎ、建仁二年(1202)、征夷大将軍に就任。しかし、母の政子が御家人13人による合議制を導入。力を封じられ、これを不満とする。病となり、北条時政ら北条一族が頼家の引退を決定し、比企能員も謀殺され、比企一族も滅亡した。更に頼家も伊豆・修善寺に幽閉後、暗殺された。修善寺に北条政子が源頼家を供養するために建立した指月殿がある。その側に源頼家の墓がある。
       源頼家像





  無学祖元(むがくそげん)
無学祖元(1226~1286)は、仏光国師と呼ばれる。南宗出身で、臨済宗の禅僧。弘安二年(1279)、八代執権・北条時宗の招きで来日。初め建長寺に入り、弘安五年(1282)、円覚寺の開山となる。禅宗に大きな影響を与えた。
     無学祖元像






  夢窓疎石(むそうそせき)
夢窓疎石(1275~1351)は、仏教界に重きをなした禅僧。嘉暦元年(1326)に京から鎌倉に下り、淨智寺住職となって、瑞泉寺の前身である瑞泉院を開いた。円覚寺住職になった後、鎌倉を離れ、天龍寺、西芳寺、等持院などを開いた。政治との関わりが深く、後醍醐天皇や北条氏、足利氏と交わった。作庭にも才能を発揮し、京都・西芳寺庭園が名高い。鎌倉では瑞泉寺庭園が有名
   夢窓疎石




   護良親王(もりよししんのう/もりながしんおう)
護良親王(1308~1335)は、後醍醐天皇の皇子で、鎌倉幕府打倒に尽力した。11歳の時に比叡山延暦寺に入り、20歳で最高位の天台座主になる。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に入って幕府に対坑。護良親王も戦いに加わる。しかし天皇は捕らえられて、隠岐に配流。親王は奈良へ逃れる。親王は前項に討幕の呼びかけ続けただけではなく、楠正成と呼応し吉野に幕府軍を引付けて戦った。やがて後醍醐天皇は隠岐を脱出。

足利尊氏の幕府離反、新田義鎌倉攻めなどが相次ぎ、幕府は倒れた。ところが、戦後に始まった、建武の新政において、護良親王は尊氏と反目する。親王は、征夷代将軍として武士階級を率いていくつもりであったが、その任は尊氏こそ相応しい。後醍醐天皇も血の気の多い我が子に、業を煮やし、逮捕して鎌倉へ護送。尊氏の弟・直義に監視させた。

そして建武二年(1335)、北条氏の遺児によって引き起こされた中先代の乱の最中、囚われの新王は直義によって殺害されてしまう。親王はこの時、28歳。皇族としては余りにも過酷な人生であった。明冶天皇は、後に護良親王を祭神とした大塔宮(鎌倉宮)を創建された。親王の廟所は近くの山の上にある。
  護良親王像





 和田義盛(わだよしもり)

和田義盛(1147~1213)は、鎌倉幕府創立時の有力御家人で、初代侍所長官。平家追討の戦いや奥州藤原攻めに功があり、源頼朝の信頼を得る。頼朝没後、梶原景時北条時政の追討に力を振るうが健保元年(1213)には、和田合戦と呼ばれた戦いで、二代執権・北条義時によって、逆に滅ぼされてしまう。これは、義盛の甥の千葉胤長らが、義時の暗殺を企てたと言う事件が発端だが、北条氏による有力御家人排除の策謀と言う見方が強い。一族の遺骸を埋葬したと伝えられる和田塚がある。

      和田義盛像
   
   
   
   
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