鎌倉の歴史上の主な人物
     平重盛(たいらのしげもり)  平氏略系図  
1138〜79(保延4〜治承3)平安末期の武将で清盛の長子。小松内大臣ともいわれる。1150年(久安6)従五位下に叙せられるが保元の乱平治の乱に父とともに参戦,戦いに勝利して平氏政権が確立すると昇進をつづけ,従二位内大臣にまで進む。『平家物語』のなかでは,猛々しい平清盛とは対照的に,沈静さと温雅そして教養を兼ね備えた武人として,朝廷とのあいだにあり,仲介を勤めたと描かれている。彼の人間像を伝える逸話がいくつか『平家物語』にみえるが,それらは,1177年(承安1)の鹿ケ谷事件の露見で後白河法皇を中心とした謀反計画を知り,怒って法皇の幽閉にとりかかろうとする父清盛を諫止した話や,春日大明神が悪行超過した清盛の頸をとった夢をみて一門の運命を悟った話,仏道に励み,世に〈燈籠大臣〉といわれた話などで,多少彼を英雄視しているきらいがある。一門の若き頭梁として期待されながらも,父に先立って年若くして病死した。
       
    平維盛(たいらのこれもり)  平氏略系図 .
平安末期の武将。重盛の長子。清盛の嫡孫のため幼少より重んじられ、11歳で従五位となる。容姿が秀麗であったため桜梅少将と呼ばれる。源平の争乱が勃発すると1180年源頼朝追討の総大将として富士川に対陣したが水鳥の羽音に驚いて壊走し平清盛の怒りをかった。1181年墨俣の戦いでは源行家を破り、その功によって右中将、蔵人頭、従三位に進み世に小松三位中将と呼ばれた。1183年源義仲追討の為北陸に向かったが礪波山で奇襲にあい大敗し、都落ちした平家一門と共に西海に走った。高野山で出家後、熊野にて入水。彼の生存説や末裔についての伝説は多い