平治の乱(1159)
平治元年(1159)、京で起こった戦乱。保元の乱で勝利した後白河天皇は、まもなく皇位を二条天皇に譲り、上皇となって院政を始めた。上皇の側近で藤原信西と藤原信頼がいた。特に信西は才能豊かな学者で、政治力もあった。源義朝は保元の乱の時に、父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにもかかわらず、一緒に戦った平清盛出世に比べて、冷たく扱われているのに不満を持っていた。そこで信西と手を組んで、清盛を押さえ込もうと思っていた。義朝は信西と手を組むために、娘の婿に信西の息子を貰う様申し入れた。しかし信西はこの申し出を断り、事もあろうに清盛の娘に息子を差し出した。義朝は怒り、清盛への攻撃を謀っていた。

平治元年(1159)12月4日、清盛が熊野(和歌山)参りのため、京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び、謀反を起こした。まず後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、信西を殺害した。これが平治の乱の始まりであった。清盛は急いで京に戻り天皇と上皇を救い出し、一気に義朝軍を打ち破った。鎌倉を目指して落ち延びようとした義朝と長男・義平は捕らえられ殺害され、その子・頼朝は伊豆蛭が小島へ流され、義経は京の鞍馬寺へ預けられた。
頼朝13才、義経は1才であった。源氏の主な人達も次々と殺され、平治の乱以降は武士の世界は平氏の世の中になっていった。また武士が政治の流れを決める時代になっていった。
            源氏系図                 皇室系図
               
             平治の乱図 
     
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