鎌倉の歴史上の主な人物
  後白河法皇(ごしらかわほうおう) 皇室系図
後白河法皇(1127〜1192)は鳥羽天皇の皇子。保元平治の乱を始め武家の力を利用して朝廷での地歩を固め武家政権との共存を目指した。鳥羽天皇が崩御すると、源義朝平清盛らを用いて崇徳院方を破った(保元の乱)。同三年(1158)、守仁親王(二条天皇)に譲位し、その後五代34年にわたり院政をしくことになる。平治元年(1159)、院側近の信西を打倒しようとする藤原信頼・源義朝らに御所を奇襲されたが、再び清盛の力により乱を抑えた(平治の乱)。平氏の専横が強まるにつれ、平清盛との関係も悪化した。第二子の以仁王が平氏追討の令旨を発すると、各地で源氏が蜂起した。寿永三年(1184)、源頼朝と手を組んで木曾義仲を討つ。翌年、源義経の要請に応じて頼朝追討の宣旨を発したが、結果的に頼朝の要求を受け入れ、義経追討の院宣を発してしまう。京都の長講堂で66歳で崩御された
       後白河法皇像






  後鳥羽上皇(ごとばじょうこう) 皇室系図
後鳥羽上皇(1180〜1239)、高倉天皇の皇子で第82代天皇。在位1183〜1198、院政1198〜1221。上皇となってからは独裁的院政を敷いた。後鳥羽上皇の時代は中央の貴族と地方武士団が各地で対立していた。特に武士団の元締めの鎌倉幕府との対立は激しかった。後鳥羽上皇は源実朝の死をきっかけに鎌倉幕府倒幕の兵を挙げたが失敗(承久の乱).隠岐に流されてその地で没する。歌人としても優れ,[後鳥羽院御集][遠島百首]等の歌集がある。後鳥羽上皇の廟所は隠岐神社に祀られている。
      後鳥羽上皇像