承久の乱(1221)
源実朝が急死して源氏直系の将軍が居なくなり、将軍の座が空席となった。北条政子は京の皇族の鎌倉への下向を、後鳥羽上皇に要請した。最終的に決まったのが源頼朝の血筋で左大臣・九条道家の子・三寅(2才)であった(下図参照)。しかし三寅は幼いため、政子が代理として政務を見る事になった。世に言う「尼将軍」である。

三寅は元服して藤原頼経と名のり、征夷大将軍になったのは8才の時であった。
この将軍後継者問題で、幕府の横暴に屈した後鳥羽上皇は、反幕感情に火がついた。後鳥羽上皇の御子・土御門上皇、順徳天皇らと密かに倒幕の計画を練った。承久3年5月15日、ついに後鳥羽上皇は諸国の兵を募って挙兵した。武士が政権を握って以来、初の朝廷と武士との対決であった。朝廷軍には三浦義村の弟・胤義の様に、北条氏の専横に不満を持っていた御家人が加わっていた。


この様に鎌倉幕府の御家人達にも動揺が広がっていた。この時、
政子は動揺する御家人に対して結束を呼びかける大演説を行い、後家人達を奮い立たせた。そして総勢19万の幕府軍は、承久3年(1221)5月22日北条義時の嫡男・泰時を総大将に京へ攻め上った。これに対して上皇軍は2万1000騎を尾張に派遣し、6月5日から2日間長良川迎え撃ったが敗退した。幕府軍はこれに乗じて京へ攻め上がった。上皇軍は最後の決戦場として宇治川に防衛陣を置いた。

6月13日ついに幕府軍は宇治川を渡り京へ攻め入った。上皇軍は敗北した。幕府の戦後処理は厳しかった。上皇に加担した公家らは洛外で斬られ、首謀者の
後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流された。臣下が上皇を流罪にしたのは日本有史以来であった。幕府は新たに,京に六波羅探題を置き、朝廷との折衝や監視、西国の御家人の統率などを行わせた。承久の乱は武士から朝廷への政権交代を謀ったが逆に幕府の体制の基礎固めとなった。
                 
              皇室系図               北条氏系図
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