鎌倉の歴史上の主な人物

  


  北条時頼(ほうじょうときより)    北条氏系図
北条時頼(1227~1263)は、五代鎌倉幕府執権。寛元四年(1246)の執権就任後、名越光時が、既に引退していた四代将軍・藤原頼経を擁して執権職を狙った。時頼は直ちに、光時を伊豆へ、頼経を京に追放した。また、三浦泰村一族を排除する為、三浦氏に謀反の疑いを掛けて滅ぼした  (宝治の乱)。康元元年(1256)、執権職を北条長時に譲るが、なおも権力を保持し幕府政治を操った。36歳の若さで亡くなり、明月院に墓がある
   北条時頼像



  北条政子(ほうじょうまさこ)    北条氏系図
北条政子(1157~1225)は、源頼朝の妻。伊豆の韮山で勢力を誇っていた北条時政の娘。伊豆に流されていた源頼朝と恋仲となり結婚。治承四年(1180)、頼朝は平家追討の挙兵を行うが最初の石橋山の戦いで敗北するが、立ち直った頼朝は、源氏ゆかりの地、鎌倉に入り政子を迎える。そして念願叶って平家を滅ぼす。政子も征夷大将軍の夫人となる。夫・頼朝の亡き後、「尼将軍」と呼ばれ、鎌倉幕府に君臨。御家人達による合議制を幕府の基本方針とし、これに反対する者は、身内であろうと、功労者であろうと、容赦なく追い払った。承久三年(1221)に起こった承久の乱では、朝廷に立ち向かうことを恐れた御家人を統率して、上京させた。恐らく政子は日本の数少ない女性政治家の中で、最も知名度の高い人物であろう。寿福寺に墓がある。
   北条政子像

  北条泰時(ほうじょうやすとき)    北条氏系図
北条泰時(1183~1242)は、三代鎌倉幕府執権。二代執権・北条義時の嫡男。健保6年(1218)、侍所の別当に就任。承久3年(1221)、承久の乱の後に六波羅探題となって、朝廷及び西国を監視した。北条義時、政子らの死後、元仁元年(1224)に執権となり、叔父の時房を連署にして補佐させ、十一人の評定衆に拠る合議制をしいた。又、貞永元年(1232)、関東御成敗式目51か条制定して幕府の基本法とする等、後世まで規範とされる政治を行った。泰時は人格的にも優れ、武家や公家の双方からの人望が厚かったと肯定的評価をされる傾向にある。泰時の政治は当時の鎌倉武士の質実剛健な理想を体現するとされ、彼のすぐれた人格を示すエピソードは多く伝えられる。朝比奈切通し大仏建立、港の和賀江島などインフラの整備を行った。泰時が創建した常楽寺に眠っている。













  北条義時(ほうじょうよしとき)     北条氏系図
北条義時(1163~1224)は、二代鎌倉幕府執権。北条時政の次男。源頼朝のもとで平家追討の戦いで活躍。二代将軍・源頼家の時代には、御家人13人の合議制に参加。父・時政が権力の拡大を図ると、姉の北条政子と図って父を追放。健保元年(1213)の和田合戦では和田義盛一族を滅ぼし、政所と侍所の長官兼任、幕府の実権を握った。承久元年(1219)に起こった三代将軍・源実朝暗殺事件の背後には、義時の策謀があったと言われる。その後、京の九条家から三寅(藤原頼経)を迎えて将軍を飾りものとし、北条氏の独裁体制を固めた。1221年の承久の乱に勝って武家政権の優位を確立し、執権政治の基礎を築いた。義時の死後、法華堂跡が建てられたが建物は残っていない。法華堂跡には義時の墓がたっている。  また出身の伊豆にも墓がある。


















  北条時房(ほうじょうときふさ)    北条氏系図
北条時房(1175~1240)は、初代鎌倉幕府執権・北条時政の子で連署・相模守に任じ、佐介氏と称し、大仏殿と号した。奥州征伐(1189)や畠山重忠追討(1205)、和田の乱(1221)に従軍。承久の変(1221)には北条泰時とともに上洛し後に六波羅南方探題(初代)となる。連署は北条泰時のもとで元仁元年(1224)から没するまで任じた。















  北条宗政(ほうじょうむねまさ)    北条氏系図
北条宗政(1190~1281)は、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の三男で北条時宗の弟。評定衆・一番引付の頭。母は北条重時の女。右近衛将監を経て武蔵守に任じた。弘安四年8月9日、29歳で没する。北鎌倉の浄智寺は宗政の菩提を弔う為に、夫人と息子・北条師時が創建した。
















北条貞時    北条氏系図
北条貞時(1271~1311)は、第九代鎌倉幕府執権で第八代鎌倉幕執権北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘(安達康盛の妹)の堀内殿(覚山尼)。弘安四年(1284)、父・時宗が亡くなり、貞時はわずか14歳で弘安四年7月7日に執権職についた。弘安八年(1285)に平頼綱が貞時の命と称して、安達康盛一族を討伐してしまう(霜月騒動)。その後、平頼綱が幕府内で専横であった為、正応六年(1293)4月22日、嫡男の飯沼資宗ともども貞時に滅ばされた(平禅門の乱)。22歳で名実とも実権を握った貞時は、特に土地をめぐる訴訟面の改革に注力した。のちに「借金反故令」の代名詞となった永仁五年(1297)の徳政令を行った。正安三年(1301)従兄弟・北条師時に執権職を譲り、30歳で出家した。しかし死ぬまで影の支配者として君臨し、応長元年(1311)41歳で亡くなった。鎌倉幕府滅亡の22年前であった。









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