正中の変(1324)
天皇の皇位が大覚寺統と持明院党の両党で交互に移っていた。後醍醐天皇が、持明院党の花園天皇から皇位を即位したのは、文永2年(1318)であった。そして幕府の謀略で皇太子には、同じ大覚寺党ながら後二条天皇の子で甥の邦良親王が立てられた。これは、後醍醐天皇が自分の皇子・尊良親王が皇位に就けなくなる事を意味した。(下図の天皇家略系図参照)

後醍醐天皇は皇位が臣下である幕府の意向によって決まると云うことに大いに不満を持っていた。そして、正中元年(1324)9月、蔵人頭(秘書長官)・日野俊基と日野資朝等を中心として、倒幕へ向けて討議が行われた。そして幕府に不満を持つ他の人達に参加を呼びかけた。これに延暦寺の僧兵、多治見国長、河内、三河、美濃などの武士達が応じた。

しかし謀議に参加していた土岐頼員が怖じ気つ”き、六波羅探題へ倒幕計画を漏らした。正中元年(1324)
9月19日、六波羅探題の軍勢が突如、多治見国長の屋敷を攻撃した。不意を衝かれた多治見一族は防戦したが一族とも自刃した。幕府の追求は朝廷にまで及んだが天皇に詮議が及ぶのを恐れ、日野俊基と日野資朝は自ら罪を被って逮捕された。天皇はお咎めなしと成ったが、日野資朝は首謀者として佐渡へ島流しとなり、日野俊基は証拠不十分で許された。これを正中の変と言う。
日野俊基は再度元弘の変後醍醐天皇の倒幕の謀議に加わって、幕府に発覚し、俊基は首謀者として捕らえられ、鎌倉へ護送され葛原岡で処刑された。辞世の句として「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」を残している。

    
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