鎌倉の歴史上の主な人物

  覚山尼(かくざんに)
覚山尼(1252~1306)は、北条時宗夫人で、後に時宗を慰霊する為に、東慶寺を開いた。父は評定衆・安達泰盛。母は、連署・北条時房の娘。10歳の時、11歳だった時宗に嫁ぐ。時宗とは、弘安七年(1284)に、死別。その翌年、東慶寺を開く。東慶寺は「縁切り寺」「駆け込み寺」として名高く、縁切り法は覚山尼の時代に形作られたと言う
      覚山尼像







   梶原景時(かじわらかげとき)
梶原景時(?~1200)は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府初期の御家人。先祖は、桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏。鎌倉権五郎景政は、後三年の役で源義家に従い、若干16才で勇猛な働きをしたとして名高い。その流れを汲む梶原氏は鎌倉一帯に一勢力をなしていた。源平の合戦で景時は息子の源太郎景季と共に活躍。しかし平家を滅ぼした後、朝廷の人気者になった源義経を頼朝に訴え出て追放する等、政治の裏で立ち回ったと言う印象が強い。その為、頼朝亡き後、同僚に嫌われて、景時一族は鎌倉を追放される。そこで京へ向かう途中の駿河の清美関(静岡県清水市)で土豪の手にかかり殺害された。景時はゆかりの地、鎌倉梶原の近くの小学校の裏庭に眠っている。
     梶原景時像





  後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
後醍醐天皇(1288~1339)は、第九六代天皇。文保二年(1318)に即位。幾度か鎌倉幕府討幕計画を立て、発覚して隠岐へ流された。しかし隠岐を脱出した後、足利高氏(後に尊氏新田義貞らの有力武士の参加を得、元弘三年(1333)、ついに幕府を倒した。しかし、武士の時代に復活した建武の新政は時代に合わず、足利高氏(後に尊氏らは、天皇から離反。子の護良親王とも対立した。京に足利幕府を開いた尊氏と争い、後醍醐天皇は京を離れて吉野を拠点し、南朝を開き吉野で没した
 後醍醐天皇像




  公暁(くぎょう) 人物関連図
公暁(1200〜1219)は、鎌倉初期の鶴岡八幡宮別当。鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の次男。母は源為朝の孫娘で比企能員の娘。元久元年(1204)7月、父・源頼家が伊豆・修善寺で殺害された後、法名を公暁と称し、別当となる。父の死が叔父の源実朝や北条氏の陰謀によるものと考え、復讐の機会を窺がっていた。永久元年(1219)正月27日夜、右大臣就任の拝賀の為、鶴岡八幡宮に参詣した源実朝が退出する際、階段の銀杏の木の陰に隠れ剣で殺害した。その後、北条義時の命で長尾定景に鶴岡の後ろの山で討たれた。この背後には北条義時の煽動があったとする説が有力である。公暁の乳母は三浦義村の妻であり、三浦と北条の権力争いが背景に有ったとの説も有り。
 
 
 
  
 
 
 
 
 

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