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                 和田塚(わだつか)  
由来
建保元年(1213)2月信濃国の住人・泉親衡が前将軍源頼家の遺児・千寿を擁して北条氏の打倒を企てた。しかし事前に発覚して、一味は捕らえられたが、その中に和田義盛の子・義直と甥の胤長が加わっていた。義盛は二人の息子の赦免を願い出て許されたが、胤長について執権・北条義時は許さず、陸奥国に配流された。北条氏にとって和田氏は、幕府創設以来の功臣であり、最大のライバルである三浦一族であった。

北条義時が専制政治を行う為に、三浦、和田氏の抹殺が必要であった。5月2日和田義盛は密かに北条氏打倒の挙兵の準備を進めた。当初は同族の三浦義村.胤義親子は協力する約束をしていたが土壇場で裏切り北条に和田に謀反の企てありと北条に訴えた。和田一族は、軍兵150騎で幕府を攻撃した。北条泰時以下、幕府の御家人達が必死に防戦したが、和田軍に突入され幕府の建物は全焼となった。将軍・源実朝と北条義時は戦火をくぐって法華堂(現在の白幡神社)へ逃れた。その後、5月3日幕府軍の軍勢が増えて和田軍は劣勢に陥った。義盛の四男・義直が討たれると、義盛は戦意を失い江戸能範の手の者に討たれた。義盛67才であった。

こうして和田一族の乱は終わり、和田一族は滅亡した。和田氏が滅び、三浦氏の権威も失墜し、北条氏の勢力はますます強まっていった。鎌倉の江ノ電和田塚駅の側に和田一族の墓があり、俗に和田塚と呼ばれている。明冶25年、新道を開く為にこの塚の一部を掘ったところおびただしい人骨が出てきた。おそらく和田合戦の時のものであろうと言うことで「和田一族戦没地」の碑が立てられた。
歴史リンク 和田塚が創建された歴史背景と時期を表示します。
                 
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基本情報             アクセス 江ノ電和田塚駅徒歩1分
住所 鎌倉市由比ガ浜
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