護良親王のお墓
由来
大塔宮・護良親王後醍醐天皇の第三皇子です。元弘の変が起きると、後醍醐天皇を援けて吉野、熊野等で鎌倉幕府討幕運動の中心として、活躍しました。鎌倉幕府は滅亡し、護良親王は、元弘三年(1333)に、征夷大将軍となり軍勢を率いて入洛しました。その後、足利尊氏との対立を深め、捕らえられ、建武元年(1334)に鎌倉に下された。

鎌倉では足利直義のもと、東光寺の土牢に幽閉された。建武二年(1335)に、北条高時の遺児・時行が鎌倉へ乱入する、中先代の乱で、足利直義が背走する時に、護良親王を殺害しました。その首は藪の中に捨てられ、その首を葬ったのが理智光寺の住職だった。理智光寺は明冶初めに廃寺となった。

建武の中興に尽くしたものの若くして命を奪われた護良親王の遺志を後世に伝えることを望まれた明治天皇の勅命により、明治2年(1869)に東光寺跡に創建された。「鎌倉宮」の名前天皇が自らつけられた。護良親王の墓は、その理智光寺跡の谷にあり、宮内庁が管理しています。急な石段を登った山頂に、石垣で囲まれた中にお墓があります。
    護良親王墓への階段 
所在地とアクセス ・鎌倉市二階堂
・京急バス鎌倉駅発大塔宮バス停徒歩5分
     護良親王の墓
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