源実朝の殺害と源氏滅亡。北条政権へ
建仁3年(1203)9月7日源実朝は11才の時、3代将軍になったが実際は北条氏のあやつり人形に過ぎなかった。実朝は京の文化に心酔していた。特に歌道は歌人・藤原定家の弟子であり、歌集「金塊和歌集」は有名である。実朝の名は武人としてより歌人として後世に名を留めている。

承久元年(1219)正月27日、実朝は右大臣就任の祝賀の式典を鶴岡八幡宮で行った。その日は昨日降った雪で一面の銀世界でその中を一千騎の兵を従えた行列が続いた。式典が終わり、実朝が社殿の石段を下りてきた時に大銀杏の陰に隠れていた前将軍・頼家の遺児・公卿に「親のかたき」と太刀で切り殺された。

公卿は逃げたが追手の長尾定景に殺害された。実朝の供養塔と思われる五輪塔が寿福寺のやぐらに安置されている。隣に母の北条政子の墓もある。実朝亡き後、幕府は北条政子が中心になり、執権・北条義時がこれを補佐して行くことになった。尼将軍・政子を中心とした北条氏による幕政の始まりである。源氏は3代にして滅亡したのである。
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