鎌倉攻め(1333)
新田義貞の挙兵(5/8)
元弘3年(1333)5月8日、かねてから幕府に不満を持っていた上野国(群馬県太田)の御家人・新田義貞後醍醐天皇の幕府追討の令旨により、上野国の氏神明神社前で挙兵し、越後の新田一族と甲斐源氏と合流した後、多勢で鎌倉幕府のある鎌倉目指して関東平野を南下した。
                       
小手指の戦い(5/11) 5月11日、小手指が原(埼玉県所沢)で、新田義貞挙兵の報を知り急ぎ軍勢を召集し北条高時の弟・泰家に一万騎をつけ新田軍を迎え撃ったが、新田軍はこれを破りさらに南下
                         
久米川の戦い(5/12) 5月12日、新田義貞軍は久米川の幕府軍をを撃破し、幕府軍は多摩川の分倍河原(ぶばいかわら)に後退した
                         
分倍河原・関戸合戦(5/15〜16) 5月15日、新田義貞の挙兵の報を知り幕府は、急ぎ軍勢を召集し、北条高時の弟・泰家を大将として、一万騎の幕府軍が応援に派遣した。一方新田軍は、途中で呼応した武士を集め、1万数千騎となっていた。新田軍と幕府軍は分倍河原で初めて大軍同士が激突した。多摩川を背にして後がない幕府軍は、決死の勢いで戦い、新田軍は入間川まで後退した。しかし新田軍に味方する武士が増え、翌16日、新田軍は幕府軍を圧倒し、再び南下した分倍河原で激しい戦闘となり双方で数千人の死傷者が出たほどであった。さらに関戸河原にまで南進した。ついに幕府軍は敗れ北条泰家はわずか500騎で、辛くも鎌倉へ逃げ帰った。
                          
鎌倉攻め(5/18〜5/22) 鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれた天然の要害であり、鎌倉へ入るには極楽寺坂大仏坂化粧坂亀ケ谷小袋坂(巨福呂坂)朝比奈名越切通しの7ヵ所だけであった。従ってこの7ケ所を守れば鉄壁の要塞となった。双方ともこの切通しの攻防が中心となった。特に化粧坂、極楽寺坂は激戦地となった。鎌倉攻防の戦いは5月18日から開始され、22日に稲村ガ崎から鎌倉へ突入し、鎌倉は火の海となり、東勝寺で北条一族自害し、150年続いた鎌倉幕府は滅亡した
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