鎌倉の歴史上の主な人物
  静御前(しずかごぜん)
 静御前(生没不詳)は、源義経の愛人で、京の白拍子と伝えられる。平家討伐後、義経は兄・頼朝と対立し、奥州目指して姿を隠した。静は吉野で捕らえられ、文冶二年(1186)、鎌倉に護送された。静で名高いのは、鶴岡八幡宮境内の舞殿で頼朝・政子夫妻の前で舞を披露したこと、更に義経との間の子を殺されたことである。京に帰った後、亡くなったとのことである。
   舞殿での静の舞



  蘭渓道隆(らいけいどうりゅう)
蘭渓道隆(1213〜1278)は、建長寺を開いた禅僧。中国西蜀の出身。死後、日本で初めての禅師号・大覚禅師を贈られた。寛元四年(1246)に来日。鎌倉では、初めに寿福寺に入る。特に五代執権・北条時頼の深い帰依を受けた。道隆は時頼によって、大船にある常楽寺に移り、さらに建長寺の開山となった。建長寺境内のビャクシンの木は道隆の手植えと伝えられる。また方丈庭園は道隆作といい、国指定の史跡・名勝である。道隆の果たした役割は大きい。
     蘭渓道隆


 




  竹御所(たけごしょ) 人物関連図    悲劇の比企一族
竹御所(1202〜1234)は、鎌倉前期の女性。鎌倉幕府四代将軍・藤原頼径の妻。父は鎌倉幕府二代将軍・源頼家。「吾妻鏡」によれば、竹御所は藤原頼径の妻になったのは寛喜二年(1230)で、将軍・頼径13才、竹御所28才であった。その後、文暦元年(1234)に懐妊した為、7月に産所に移り、27日に出産したが難産の為、死去。妙本寺に墓がある。





  
          







  島津忠久(しまずただひさ)
島津忠久(1179〜1227)は惟宗広言の子。母は比企能員の妹・丹後局。一説には源頼朝のご落胤と言う。父・広言は近衛守に仕え、同家領・島津荘下司となり、初めて島津氏を称した。建久三年(1192)島津荘の「地頭と薩摩・大隅・日向三国の守護」に任じられた。安貞元年6月18日鎌倉で没した。源頼朝の墓の東谷に墓がある。

















  毛利季光(もおりすえみつ)
毛利季光(1202〜1247)は源頼朝の有力御家人・大江広元の四男で関東評定衆。愛甲郡・毛利荘を領して、初めて毛利姓を称した。宝治元年(1247)6月、三浦の乱に三浦泰村、光村兄弟に加担して北条時頼軍に敗れ、源頼朝の法華堂(白幡神社)で自害し三浦一族も滅亡した。墓は源頼朝の墓の後方の山にある。













  退耕行勇(たいこうぎょうゆう)
退耕行勇(1163〜1241)鎌倉時代の僧。浄妙寺常楽寺東勝寺を開山。真言密教を学んだ後、栄西の門に入り臨済禅を修めた。寿福寺二世。
       退耕行勇像
   
   
   
   
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